正覚寺について

ご本尊をはじめ、当山にまつられる仏様がこの地の歴史を物語ります。


本堂 外観

正覚寺本堂外観

本堂内陣

正覚寺本堂

本尊阿弥陀三尊像

阿弥陀三尊像

 中尊を阿弥陀如来とし、その左右に観音・勢至菩薩を配する。立像の場合は、来迎の姿を現しているという。観音菩薩は往生人を納める蓮台を差し出す姿で、勢至菩薩は合掌する姿、そして阿弥陀如来は来迎印を結ぶ姿である。

阿弥陀如来座像

阿弥陀如来座像

 像底に「 摂州三田 正覚寺第九世 眞蓮社誠譽上人観応(花押)奉再興之 延宝弐年 乙卯 三月七日 」の朱書きの銘文がある。



旧超勝院本尊阿弥陀如来座像

旧超勝院本尊座像

旧西光寺本尊阿弥陀三尊像

旧西光寺本尊阿弥陀三尊像


徳本上人

徳本上人

 江戸時代後期活躍した、浄土宗捨世派の僧侶で、当時の庶民の間に念仏信仰をひろめた。その生涯は一所不住の捨世念仏に徹したもので、各地を布教して「流行神」と称されるほど熱狂的に支持された。独特の筆跡による、名号碑が建てられた。「徳本行者集」は、死後弟子たちによって編纂されもので、その中の「御肖像記」には諸国に安置された九四軀の御肖像が記されている。その中に「一、御肖像 御丈ケ、摂州三田」と記されており、この像がそれにあたると見られる。

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

 釈尊十六羅漢の一人。ビンドーラ・バーラドヴァージャ。獅子吼第一とされる。我国では、おびんずる様と呼ばれ、堂の外陣や回廊に置き、病んでいる場所と同じ所をなでて治す、と言うような風習が出来上がった。なで仏ともいう。



涅槃図

涅槃図

 釈尊涅槃の姿を描いたもの。沙羅双樹のもとに頭北面西の釈尊が横臥し、嘆き悲しむ会衆と動物たち。右上から飛来する摩耶夫人の姿を描く。裏書から、元禄四年の年号と、勧進を受けた750名の法名や俗名が記されている。

観経曼陀羅図

観経曼陀羅図

 『観無量寿経』の所説を図絵にしたもの。観無量寿経に説かれた、西方極楽浄土の壮麗さを表したもので、阿弥陀十六想観と九品往生の姿を展開している。裏書からは、享保十年に竹屋忠右衛門から寄進されたものであることが分かる。



観音菩薩像(高麗観音)

観音菩薩像(高麗観音)

 大悲の精神を象徴する菩薩で、観世音菩薩、観自在菩薩ともいう。救済すべき衆生の願いや能力に合わせて、種々の姿に変化して現れると言う。浄土敎においては、勢至菩薩と共に阿弥陀仏の脇侍として重要である。当山の聖観音菩薩像は、豊臣秀吉の文禄の役の際、渡海した九鬼嘉隆が朝鮮より持ち帰ったもので、九鬼氏三田移封の際、当山に寄進されたと伝えられる。

藩主養母の墓(三田民話迷子の墓石)

藩主養母の墓(三田民話迷子の墓石)

 寛永10年九鬼久隆が三田転封の際、鳥羽より移ってきた九鬼氏の荷駄の中で、遅れて到着した墓石が当山に誤入されたと言う。墓石は、初代藩主久隆の養母お亀の方のもので、法号は「西照院殿信慧宗心大禪定尼」とある。



神田惣兵衛夫婦の墓

神田惣兵衛夫婦の墓

 三田本町の豪商で、三田青磁の開祖。江戸時代に青磁器をひろめた内神屋惣兵衛「悟心院廓譽大然居士」、夫人「懸繪院然譽智燈大姉」が併記されている。